平和
太阳がうらうらに照っている日、公园へ行って、芝居の上に横になっな。空を流れ行く云を眺め、新鲜な空気を胸いっぱい吸い込んだ。目に痛いほど绿がまわりを囲んでいた。穏やかな自然の中で心身ともに寛ぐ时、本当に自分が幸せであることを感じた。そのとき、一匹の鸠はどこかから飞んできて、屋根の上に留まっていた。
キャンパスにはニュースを放送していた。中国の南西地方には旱魃に见舞われているという声が耳に入った。にわかに私の気分が沈んできた。世界が确かに不平和であると思う。
ここ数年、たて続けに天灾が起きている。中国の四川を始め、ハイチ、チリ、ギリシアなどには大きな地震が発生した。多くの人々にとって、持ってきた损失ははかろうにもはかれない。故郷を廃墟に変えた上に、家族を失ってしまった人は少なくなかった。けれども、天灾から持ってきた不平和の要素は避けがたいと思う。事実、人间自身は不平和の主な原因であると思う。
人类が诞生して以来、和戦という话题がずっと存在している。戦争は间断なく続いている。第二次世界大戦が终わった六十年以来、二十回も超えた戦争が起きたということである。二千万人が戦争で死んでしまった。今にも、ある地域は戦争中である。テレビを见るたび、路头に迷っている子供たちの颜を见て、あまりにも悲しくて、激しい愤りを禁じえない。人间はいったい何のために戦争を発动するか。
一言以って之を蔽うと、利益のほかにならない。例えば、1990年、石油资源を一因にもなって、プルし亜湾戦争が起きた。ただその一例にすぎない。国と国の纷争がどころか、国中の人々は各自の利益を図るために暴动が起きる。新闻によると、タイに叶、调和を欠いているそうだ。ある集団はデモ行进をしているからである。
言うまでもない、利益さえあれば、戦争が停止するわけがない。つまり、人间は己を抑制することである。中国で教育者および思想家である孔子先生は“己の欲っせざる所、人に施すこと勿れ”と言ったことがある。ずっと昔から、平和を切望する人が数え切れない。血も涙もない世界を造るため、命をささげる人が多い。その中。军人は不可欠の力である。国连の安全保障理事会は、平和维持部队を各国に派遣して、平和を守る。
戦争地域の子供たちに比べて、中国人としての私たちは幸せであると言える。彼らは腹が减っている上に、家族もなくなったかもしれない。私たちは家族を楽しく暮らしたり、教室で知识を吸収したり、周末になると、友达と一绪に游んだりする。戦争の恐れがない。中国政府は穏やかな国内环境を创るほかに、全世界の平和的な问题に向けて、努力を惜しまない。
世界総人口の五分の一を有する中国は、全世界の平和を自分の歴史の使命として、いろいろ努力している。和平会谈を通して、朝鲜半岛の核兵器の问题を解决することを主张した。有効な政策を打ち出して、発展途上国である国家を応援する。世界に平和のイメージを残っている。
但し、中国だけの努力は足りないと思う。各国の协力を得ないことには、全世界の平和を筑くことは不可能であると言うべきだろう。国は大小を问わず、一律に平和のために努力しなければならない。不平和の要素とは、戦争だけでなく、核兵器の研究とか、贸易摩擦とか、激しい贫富の差とか、テロリストとかいろいろな种类がある。
今、平和および発展は时代の旨となっておる。具代的に言えば、平和と発展はお互いに制约し合う。平和は発展の前提である。発展は平和を促进する。けれど、各地域の発展はバランスを取らない。何の争いもない世界のため、各国は协力してがんばらなければならない。
一般の人としての私たちにとって、できることがある。日常生活には、お互いに助け合って、穏やかな雰囲気に囲まれるよう荷努力するべきだ。私も小さい事から、力を入れるつもりである。
头を上げて、いつの间にかもう一匹の鸠が屋根の上に留まってきた。二匹の鸠は恋人のように何かをささやいていた。世界の平和を祈っているかなと思う。友好のまね种をまく、平和の花を咲かせよう。