大学の歴史
愛知大学は、1946年愛知県豊橋市に誕生しました。その前身ともいえる東亜同文書院(後に大学)は、1901年中国上海に設置され、日本の海外高等教育機関として最も古い歴史をもちます。当時貴族院議長であった近衞篤麿公が、東亜同文会を設立。東亜同文会の理念は教育文化事業によって日中友好提携を成し遂げることにあり、そのための人材育成が東亜同文書院大学の設立目的でした。後に首相となった近衞文麿公も1926年から5年あまり院長に就任しています。
アジア随一の国際都市であり、当時の文化や流行の発信地でもあった上海で、学問の自由を尊ぶ校風のもと、中国・アジア重視の国際人を養成。しかし、日本の敗戦によって東亜同文書院大学は中国に接収、半世紀にわたる歴史の幕を閉じたのです。その折、同大学最後の学長を務めた本間喜一(後に最高裁判所事務総長)は、新たな大学の設立を決意。1946年5月、本間学長の呼びかけに東亜同文書院大学等の教職員、学生の多くが集い、同年11月15日に愛知大学は中部地区唯一の旧制の法文系大学として誕生しました。1949年4月からは法経学部(法学科・経済学科)に文学部(社会学科)を加えた2学部3学科で新制大学へと移行、今日の発展に至ったのです。
愛知大学は、1946年愛知県豊橋市に誕生しました。その前身ともいえる東亜同文書院(後に大学)は、1901年中国上海に設置され、日本の海外高等教育機関として最も古い歴史をもちます。当時貴族院議長であった近衞篤麿公が、東亜同文会を設立。東亜同文会の理念は教育文化事業によって日中友好提携を成し遂げることにあり、そのための人材育成が東亜同文書院大学の設立目的でした。後に首相となった近衞文麿公も1926年から5年あまり院長に就任しています。
アジア随一の国際都市であり、当時の文化や流行の発信地でもあった上海で、学問の自由を尊ぶ校風のもと、中国・アジア重視の国際人を養成。しかし、日本の敗戦によって東亜同文書院大学は中国に接収、半世紀にわたる歴史の幕を閉じたのです。その折、同大学最後の学長を務めた本間喜一(後に最高裁判所事務総長)は、新たな大学の設立を決意。1946年5月、本間学長の呼びかけに東亜同文書院大学等の教職員、学生の多くが集い、同年11月15日に愛知大学は中部地区唯一の旧制の法文系大学として誕生しました。1949年4月からは法経学部(法学科・経済学科)に文学部(社会学科)を加えた2学部3学科で新制大学へと移行、今日の発展に至ったのです。