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記念日
140
八目迷
八目迷
2024年9月10日 17:47
*「夏へのトンネル、さよならの出口」のネタバレを含みます。
スマホのアラームが鳴るより先に、暑苦しさで目が覚めた。
ベッドから上体を起こす。時計を見ると、六時半だった。カーテンの隙間から朝日が差し込み、セミの鳴き声が聞こえてくる。トレーナーの襟元をぱたぱたしながら、僕はアラームを解除した。二度寝するには微妙な時間だった。
寝室からダイニングに移ると、むわっとした熱気が全身を包んだ。
暑い……もう九月なのだから、いい加減涼しくなってほしい。
エアコンを点けて、カーテンを開ける。それからキッチンに入って、食パンをトースターにセットした。焼き上がるまでの時間で、顔を洗い、歯磨きを済ませる。東京に引っ越してからもうじき二年、朝のルーチンは効率化が進んでいた。
焼き上がったパンにバターを塗っていると、花城がダイニングに入ってきた。ヘアバンドで髪をまとめて、額には冷えピタが貼ってある。目の下には、うっすらとクマができていた。いかにも漫画家らしい姿だ。
僕は挨拶をする。
「……おはよう?」
「おはよう。私は今から寝るけど」
「相変わらずぐちゃぐちゃだね、生活リズム」
花城はキッチンに入ると、てきぱきとシリアルを皿に盛って牛乳をかけた。それを持って、食卓のテーブルに着く。僕も自分の朝食をそちらに運んで、花城の正面に座った。
同棲を始めてから、二人で決めたわけでもなければ、暗黙の了解といえるほどでもない、ささやかなルールが僕たちのあいだにいくつか生まれた。そのうちの一つが、「朝ご飯のときはいただきますを言わなくてもよい」だ。そんなわけで、僕たちは何も言わずに食べ始めた。
パンをぱりっとかじる音、フル稼働するエアコン、タイマーを設定していた洗濯機、そして花城の「ふわあ」というあくび。そんな小さな音たちが、僕たちの食卓を満たしていた。
「ねえ、花城」
「ん」
「朝ご飯って、朝に食べるから朝ご飯なのかな。それとも、起きてすぐ食べるご飯なら夜でも朝ご飯になるのかな」
「現実の時間と体内時計、どっちを基準にするかって話?」
「まぁ、そんな感じ」
「う~ん、じゃあ後者じゃない? 英語の話になるけど、ブレックファストってたしか断食を破るみたいな意味だったし。朝って言葉は入ってない」
「おお、博学」
「それほどでもあるね」
ふふんと自慢げに笑う花城。
僕はバタートーストをたいらげて、牛乳を飲む。いつもより少し早起きした分、ゆっくりできそうだ。リモコンでテレビを点けると、天気予報をやっていた。お天気キャスターが今日の最高気温は三五度だと伝える。まだまだ秋は遠い。
――現実の時間と体内時計、どっちを基準にするかって話?
花城の言葉が反芻される。
朝食が体内時計を基準にするなら。
僕の年齢も、戸籍の三二歳ではなく、体内時計を基準にした一九歳が正しいということにならないだろうか。
*
花城とウラシマトンネルを出てから、二年が経った。
まさに激流のような二年だった。いや、だった、ではない。今もなお、激流の日々が続いている。ウラシマトンネルに潜っていた空白の一三年間を、がむしゃらに埋めようともがいていた。
僕は高卒認定試験を受け、今は近所のスーパーで働いている。花城の収入だけでは生活が不安定だし、ずっとヒモのままでいることにも抵抗があった。最近は夜にも週三でバイトを入れて、資格取得の勉強もしている。
『働きすぎじゃねえの』
と電話の向こうで加賀が言う。
仕事の休憩時間、僕はスーパーの裏で加賀に電話をかけていた。
「仕方ないよ。履歴が真っ白な三二歳じゃ、たくさん稼ぐのは難しいんだ」
『売れてんだろ? 花城せんせの漫画。俺の甥っ子も読んでる』
「花城が聞いたら喜ぶよ」
『書店でよく見かけるし、そこまで生活が厳しいとは思わないんだけどな』
「まぁ、花城も大丈夫だとは言ってるよ。でも……これは本人には言えないけど、やっぱり漫画家って不安定な職業じゃない? だから男である僕がちゃんと稼がないと……」
記念日
140
八目迷
八目迷
2024年9月10日 17:47
*「夏へのトンネル、さよならの出口」のネタバレを含みます。
スマホのアラームが鳴るより先に、暑苦しさで目が覚めた。
ベッドから上体を起こす。時計を見ると、六時半だった。カーテンの隙間から朝日が差し込み、セミの鳴き声が聞こえてくる。トレーナーの襟元をぱたぱたしながら、僕はアラームを解除した。二度寝するには微妙な時間だった。
寝室からダイニングに移ると、むわっとした熱気が全身を包んだ。
暑い……もう九月なのだから、いい加減涼しくなってほしい。
エアコンを点けて、カーテンを開ける。それからキッチンに入って、食パンをトースターにセットした。焼き上がるまでの時間で、顔を洗い、歯磨きを済ませる。東京に引っ越してからもうじき二年、朝のルーチンは効率化が進んでいた。
焼き上がったパンにバターを塗っていると、花城がダイニングに入ってきた。ヘアバンドで髪をまとめて、額には冷えピタが貼ってある。目の下には、うっすらとクマができていた。いかにも漫画家らしい姿だ。
僕は挨拶をする。
「……おはよう?」
「おはよう。私は今から寝るけど」
「相変わらずぐちゃぐちゃだね、生活リズム」
花城はキッチンに入ると、てきぱきとシリアルを皿に盛って牛乳をかけた。それを持って、食卓のテーブルに着く。僕も自分の朝食をそちらに運んで、花城の正面に座った。
同棲を始めてから、二人で決めたわけでもなければ、暗黙の了解といえるほどでもない、ささやかなルールが僕たちのあいだにいくつか生まれた。そのうちの一つが、「朝ご飯のときはいただきますを言わなくてもよい」だ。そんなわけで、僕たちは何も言わずに食べ始めた。
パンをぱりっとかじる音、フル稼働するエアコン、タイマーを設定していた洗濯機、そして花城の「ふわあ」というあくび。そんな小さな音たちが、僕たちの食卓を満たしていた。
「ねえ、花城」
「ん」
「朝ご飯って、朝に食べるから朝ご飯なのかな。それとも、起きてすぐ食べるご飯なら夜でも朝ご飯になるのかな」
「現実の時間と体内時計、どっちを基準にするかって話?」
「まぁ、そんな感じ」
「う~ん、じゃあ後者じゃない? 英語の話になるけど、ブレックファストってたしか断食を破るみたいな意味だったし。朝って言葉は入ってない」
「おお、博学」
「それほどでもあるね」
ふふんと自慢げに笑う花城。
僕はバタートーストをたいらげて、牛乳を飲む。いつもより少し早起きした分、ゆっくりできそうだ。リモコンでテレビを点けると、天気予報をやっていた。お天気キャスターが今日の最高気温は三五度だと伝える。まだまだ秋は遠い。
――現実の時間と体内時計、どっちを基準にするかって話?
花城の言葉が反芻される。
朝食が体内時計を基準にするなら。
僕の年齢も、戸籍の三二歳ではなく、体内時計を基準にした一九歳が正しいということにならないだろうか。
*
花城とウラシマトンネルを出てから、二年が経った。
まさに激流のような二年だった。いや、だった、ではない。今もなお、激流の日々が続いている。ウラシマトンネルに潜っていた空白の一三年間を、がむしゃらに埋めようともがいていた。
僕は高卒認定試験を受け、今は近所のスーパーで働いている。花城の収入だけでは生活が不安定だし、ずっとヒモのままでいることにも抵抗があった。最近は夜にも週三でバイトを入れて、資格取得の勉強もしている。
『働きすぎじゃねえの』
と電話の向こうで加賀が言う。
仕事の休憩時間、僕はスーパーの裏で加賀に電話をかけていた。
「仕方ないよ。履歴が真っ白な三二歳じゃ、たくさん稼ぐのは難しいんだ」
『売れてんだろ? 花城せんせの漫画。俺の甥っ子も読んでる』
「花城が聞いたら喜ぶよ」
『書店でよく見かけるし、そこまで生活が厳しいとは思わないんだけどな』
「まぁ、花城も大丈夫だとは言ってるよ。でも……これは本人には言えないけど、やっぱり漫画家って不安定な職業じゃない? だから男である僕がちゃんと稼がないと……」